増田印刷物コレクション

2010年2月15日 (月)

壽屋ウイスキーラベル「増田印刷物コレクション」 から

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このウイスキーラベル、年代ははっきりとは特定できないのですが、スクラップブックに貼ってある前後の印刷物から推定すると1950年代後半のようです。ただ「SUNTORY WHISKY」としてあるだけで「WHITE」や「OLD」のようなクラスの表記がないせいかたいへんスッキリした印象、赤白黒と最小限の色づかいと相まって今見ても魅力的だと思います。
同じ年代と思われる麒麟麦酒のラベルもありますが、これは今とほとんど変わらない印象。並べて比較すれば相当違いはあるのでしょうが、伝統を重視していると思われる企業の姿勢が感じられて興味深いところです。
この2社、先の経営統合で紙上をにぎわせましたが無事?破談に終わったようで左党にとっては歓迎するむきが多かったようです。そうですよね、巨大になってシェアを占めりゃいいってもんじゃない。それぞれの歴史、文化があるわけですから、お互いにしのぎを削って丁々発止とやり合えばそれだけ豊かになりわれわれ飲兵衛の選択肢も多くなって楽しみも増すというものです。

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2009年9月21日 (月)

旭川市鳥瞰図「増田印刷物コレクション」 から

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昭和11年旭川市発行の鳥瞰図。
天地187ミリ左右770ミリの画面いっぱいの見事な鳥瞰図。70年以上も前のものだがその隅々まで神経の行き届いた描写力に感嘆し、印行名にある吉田初三郎を調べてみました。

吉田 初三郎(よしだ はつさぶろう)
1884年3月4日 - 1955年8月16日)は大正から昭和にかけて活躍した鳥瞰図絵師。生涯において3000点以上の鳥瞰図を作成し、「大正広重」を自称した。
京都生まれ。元の姓は泉で、1歳の時に父親が亡くなったため母の姓を名乗る。10歳で友禅図案師に丁稚奉公する。25歳のとき鹿子木孟郎に師事して洋画を学ぶが、鹿子木のすすめで商業美術に転向する。
1914年、最初の鳥瞰図である『京阪電車御案内』が、修学旅行で京阪電車に乗られた皇太子時代の昭和天皇の賞賛を受ける。
大正から昭和にかけての観光ブームによって初三郎の鳥瞰図の人気は高まり、大正名所図絵社を設立する。その顧客は鉄道会社や地方自治体や新聞社であった。
全国の自治体(満州や台湾を含む)などから、鳥瞰図製作の依頼が殺到し、初三郎は犬山市や八戸市(種差海岸)など、拠点を移しながら、多くの弟子とともに製作に当たっている。珍しいものとしては、幻に終わった東京万博の会場図を描いている。
高松宮宣仁親王など皇族や松井石根など軍人との交友も広く、驚異的なペースで依頼を受け、鳥瞰図を製作し続けた。しかし、第二次世界大戦が進む中、初三郎式鳥瞰図は港湾等の軍事機密が見て取れ、地政学上好ましくないという軍部の判断の下、不遇の時代を送る。
戦後、初三郎が最初の大きな仕事として引き受けたのは、広島原爆の被害を鳥瞰図にする仕事だった。知遇を得た昭和天皇と、日本を愛し、戦争に踊らされた初三郎は、渾身の図をまとめ、世を去ることとなる。
死後は忘れられていたが、1999年、堺市博物館で大規模な回顧展が開かれたのを契機として各地の博物館で展覧会が開かれ、再評価されるようになった。
現在の鳥瞰図の手法は平行透視図法が主流であるが、初三郎は「初三郎式絵図」と呼ばれる独自の作風を確立していた。その特徴は、見えないはずの富士山やハワイが描かれているなど、大胆なデフォルメや遊び心にある。(Wikipediaより)

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2009年5月 6日 (水)

ホンコンシャツ No.5「増田印刷物コレクション」 から

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立夏を過ぎると衣替えを待たずに早く夏姿になりたいような高温の日が出現するようになりました。
そういえば何年か前、どこかの省主導でクールビズとかの省エネファッションが喧伝されたことがありました。今どうなってるんでしょう。
高温多湿の日本では理にかなったファッションではありますが、なにも鳴り物入りで国が音頭とるような類の話ではナインデナイカイ?と思ったものでした。
そこへいくと1960年代にVANヂャケットの石津謙介がプロデュースした「ホンコンシャツ」は“民主導”で巷に迎え入れられ大ヒットになった商品です。
このシャツを着て夏の満員電車の息苦しさから少し逃れた気分になったご同輩もかなりいらっしゃるのではないかと拝察いたします。
今回の「増田印刷物コレクション」 はこのホンコンシャツ。
中面に石津健介のコメントが載っていて『もっとも保守的といわれる英国紳士でさえも、「サウザーン・シャツ」(南方のシャツ)という半袖のワイシャツにネクタイを結ぶのが夏のオフィス・スタイルとされている。云々』とずばり説得力をもって核心をついているところは流石です。
で、ちなみにwikipediaで石津健介にいってみたら
2005年5月24日、肺炎のため東京都青梅市の病院で死去。ファッションに最期までこだわり続け、寝たきりになってもパジャマを着ることを拒絶し、三宅一生デザインのシャツを着たまま息を引き取った。享年95(満93歳没)。とありました。
“三宅一生デザインのシャツを着たまま息を引き取った”の一行がいいですね。図らずもいろいろな思いに巡らせられました。

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2009年4月16日 (木)

たくぎん PR誌「りびんぐ百科」No.4「増田印刷物コレクション」 から

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あの「たくぎん」北海道拓殖銀行のPR誌です。奥付を見ると発行は昭和39年(1964年)4月。B6サイズ、表紙共で56ページという豪勢なものです。
ご存知のように1977年11月に経営破綻、精算が終了したのはまだ3年ほど前の2006年にすぎません。
都市銀行としては戦後初、かつ現在で唯一の破綻銀行という不名誉な名を歴史にとどめました。
バブル景気に乗って不動産融資に奔走し、とりわけ採算性をまったく無視してカブトデコム、ソフィアへと垂れ流した巨額な融資がつまずきのもとですが、経営陣のまっとうな反省は無かったように記憶してます。
この冊子の発行当時は北海道に君臨して我が世の春を存分に謳歌していたのでしょう。
中面のコピーには、「これからがほんとうの“電化時代”です。たくぎんの消費者金融は、あなたに電化生活をおおくりします。」とあります。
ま、それはともかくオープンリールのテープレコーダーやステレオ機器など“博物館もの”が見える反面、今とさして変わらないものもけっこう見受けられるのが面白いですね。
ともあれ、消費を煽ってとどのつまり辻褄が合わなくなる。100年に一度の大不況とされる現在の元凶と少しも変わらないようです。

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2009年3月30日 (月)

日本電信電話公社リーフレット「増田印刷物コレクション」から

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我が家に電話が敷かれたのは長男誕生の翌年、昭和43年のことです。この当時電話はまだどこの家にもあるというような時代ではありません。商いを生業としているところはさすがに電話は必需品でしたから、懇意にしているこういった家にお願いしておいて“呼び出し”てもらいます。「市川さ〜ん、○○からお電話ですよ」といった按配です。名刺の電話番号の後ろに(呼)という表記は当たり前のご時世でした。“呼び出し電話”ですからそこのところをよろしく、というわけですね。
今回の「日本電信電話公社」のパンフレットはその当時のものです。
中面、面白いですね。「秘書電話」のコピーで“重役にかかってきた電話も云々”とあります。重役かぁ、懐かしい響きです。今ではすっかり「重役」と言う言葉も死語になったなぁ、そういえば森繁久弥が出ていたそんなシリーズ映画があった、と次々思いが飛んで、どんな映画だったか「重役」をキーワードに検索をかけてみたら、友人 のブログがいきなりヒットしました。このブログからはいろいろ学ぶことが多くとても勉強になります。
で、そのものズバリ「重役」と言う言葉が死語になった。のタイトルで出てきたのにはちょっと驚きでした。もしかすると以前に読んでいて記憶がたぐり寄せられたのかも知れません。
重役もさることながら、電話がここ40年の間に予想をはるかに超えてすっかり様変わりしたことだけは事実です。
●仕上がりサイズA4 三つ折り 2色×2色 昭和40年(1965年)頃

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2009年3月25日 (水)

『THE SATURDAY EVENING POST誌』

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第2回WBC(World Baseball Classic)決勝は素晴らしい結果で幕を閉じました。最後の最後まで勝利の女神がどちらに微笑んでもおかしくない好試合だったと思います。2連覇を祝して今宵は美酒に酔い痴れよう。
それにしても昨日の準決勝4:9と完敗の(米)ジョンソン監督が「我々は投打とも万全でなかった。もし全てをうまく準備できれば、勝てたと思う」とのコメントはいただけないですねぇ。まあ、それだけ日本の野球が成長したと言うことなのでしょう。
今回の増田印刷物コレクションは『THE SATURDAY EVENING POST誌』の1ページです。スクラップブックの「煙草・スポーツ編」の中の一枚で発行年は完全に特定できませんが、他のページから推測すると1950年のようです。大リーグの名選手達がズラリと勢揃いしています。まさに日本の野球が追いつけ、追い越せの目標にしていた本場野球の勢いをこのイラストレーションからも感じるようです。
正直に白状するとスポーツ音痴の小生としてはこの中で知っている名前はジョー・ディマジオくらいです。で、試みに左上の“ピッチャーJOHNNY SAIN”を検索してみました。1946年から1950年まで毎年のようにナショナルリーグの20勝投手として活躍した選手のようです。当然ほかの選手も推して知るべしなのでしょう。
ちなみにこの『THE SATURDAY EVENING POST誌』はアメリカの中産階級を読者対象としてアメリカの国民的画家ともいえるNORMAN ROCKWELLが長年表紙を担当、ロックウェルの画集などでもおなじみです。

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2009年3月18日 (水)

映画 ベン・ハーの販促チラシ 「増田印刷物コレクション」から

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18benhur_ura100_2今回は映画「ベン・ハー」のリーフレットです。サイズは仕上がりB5の二つ折り、表面カラー、中面はスミ1色です。カラーといっても現在のように印刷の製版技術が進化する前の時代です。たぶん人工着色(略して人着=じんちゃく)でしょう。版は湿版=しっぱんといって磨りガラスに卵白を使った幕面の像をレタッチマンと呼ばれる技術者が調子を整理して…、あっ、このへん話し出すと長くなるのでまた機会があったらですね。この50年の変化はあらゆる分野に及んでいますが、印刷に関してもご多分に漏れず、なんぞという生やさしい話ではなく激変と言いたいくらいです。
さて、この映画がアメリカで公開されたのが奇しくもちょうど50年前の1959年です。日本での公開は翌年1960年。
このリーフレットの中面に“製作費59億円…東京タワー(25億円)が二本立つ”とあるのが面白いですね。ちなみに東京タワーが完成したのは前年の1958年ですから比較するのもむべなるかなです。
年表【ザ・20世紀】 を繰るとこの年の4月10日 皇太子明仁(現=天皇)と正田美智子さんの結婚式が行われた。また、伊勢湾台風が9月26日紀伊半島に上陸して北上、東海各地に深いツメ跡を残して翌27日、日本海へ駆け抜けた。 全国の被害は、死者・行方不明者5098人、負傷者3万8921人、被害家屋83万3965戸、など多事多難の年でもあったようです。
Wikipediaによると

[概要]
1880年11月12日、ルー・ウォーレスの発表した小説『ベン・ハー』はたちまちアメリカで大ベストセラーとなった。小説はフィクションであるが、イエス・キリストはじめ『新約聖書』ゆかりの人物たちを織り交ぜた構成だった。小説『ベン・ハー』のこの発行部数記録が破られることになるのは1936年の『風と共に去りぬ』を待たねばならない。この小説はすぐに舞台化され好評を博したため、何度も上演された。やがて映画の時代が訪れると『ベン・ハー』の最初の映画化がおこなわれた。
戦車競走のシーンはあきらかにソポクレスの悲劇『エレクトラ』の劇中のオレステスの守り役による戦車競走と事故死の虚偽の報告から多くの着想を得ている。
[ストーリー]
ローマ帝国支配時代のユダヤ人貴族ユダ・ベン・ハーの数奇な半生にイエス・キリストの生涯を交差させて描く。
紀元26年、ローマ帝国支配時代のユダヤにローマから一人の司令官が派遣される。彼の名前はメッサーラ。メッサーラは任地のエルサレムで幼馴染のベン・ハーとの再会を喜び合う。ベン・ハーは貴族の子でユダヤ人とローマ人ながら2人は強い友情で結ばれていた。
しかし、2人の立場はエルサレムでは支配者と被支配者。そのことが2人の友情に亀裂を生むことになる。その折も折、新総督が事故にあいそうになる事件が起きたことで、ベン・ハーはメッサーラに総督暗殺未遂の濡れ衣をきせられ、家族離散、自身は当時奴隷以下の扱いであった罪人におとされるという憂き目にあう。護送中、苦しむ彼に一杯の水をくれた男がいた。その男こそがイエス・キリストであるということをベン・ハーはまだ知らなかった。
罪人としてガレー船のこぎ手(番号で呼ばれ、船が沈没すれば捨てられる捨て駒である)とされたベン・ハーは海戦において司令官の命を救うという大殊勲をあげ、彼を見込んだ司令官の養子にまでとりたてられる。戦車競走の新鋭としても注目されることになり、ユダヤへ戻って家族を探していたベン・ハーは母と妹が死んだという報に涙し、メッサーラへの復讐の鬼と化した。
やがてエルサレムでの戦車競走で不敗のメッサーラに挑むことになるベン・ハー。激闘の末、ライバルのメッサーラを倒したベン・ハーは、瀕死のメッサーラから思いもかけない言葉を聞くことになる……。

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2009年3月11日 (水)

ROYAL CROWN COLA ローヤルクラウンコーラ 「増田印刷物コレクション」から

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今回の「増田印刷物コレクション」は洋酒の壽屋が発売した缶入りのコーラの二つ折りリーフレットです。
この「増田印刷物コレクション」は初回にもちょっと触れましたが、札幌の古書店と顔馴染みになり偶然手に入れたものです。その日もたまたま店に顔を出したのですが、店主は大手広告代理店の札幌支社に話を持って行く予定で、顔を出す直前にこのスクラップブックを作っていた方が亡くなり処分に困って遺族の方が持ち込んで来られたそうです。箸袋や個人商店の包装紙に始まり今回ご紹介するようなものまで実に多種多様でそのボリュームもかなりなものです。最初は玉石混淆だなと思ったのですが、時代を経ると石も玉に変化するんですね。こんなモノまで、というのがかえって面白い。“あれから三十余年”です。いずれしかるべきところに寄贈できたらと思ってます。
さて、“コーラ接近遭遇”は中学3年(東京保谷、現西東京市)、ローヤルクラウンコーラ(ここでは発売元の壽屋の表記に従います。)はまだ日本に姿を現す前でいわばコーラの先史時代。同級生のU君が飲んでいたのを目撃したときです。コカコーラでしたね。ガラス瓶に入ったその黒い液体を不思議な気分で眺めたのをまざまざと思い出します。半世紀も前の話です。実際に口にしたのはいつだったかはまったく記憶がない。たぶん在学中(中学ですぞ!)に勤めだした建設会社の花見でした。ビールをジュースで割ったものを飲んで「うまい!」と」思ったのは確かで酒好きは双葉より何とやらです。したがってコーラもこのとき初めて飲んだのは間違いないのだがその影は明らかにうすいようです。ローヤルクラウンコーラはWikipediaによると

世界初の缶飲料、世界初の16オンスボトル、世界初のダイエットコーラ、世界初のカフェインフリーコーラなど、時代を先取りした「世界初」の商品を多く世に出しており、それらはインダストリアル・ファースツと呼ばれている。歴史は長く、1905にジョージア州コロンブスで売り出されたシェロ・コーラが元祖。1934年にシェロ・コーラを化学者ルーファス・カムが6ヶ月かけて改良し、ロイヤルクラウンと名づけたのが始まりといわれている。
日本での歴史も長く、1961年には壽屋(現サントリー)が広告を掲載している。モデルは加山雄三。その後はロイヤルクラウン日本支社を設立して本格的に日本市場へ参入したが、市場にはなかなか受け入れられず、1989年にポッカコーポレーションと提携。しかし1996年の契約期限切れを期に契約を解消、日本市場から姿を消した。現在、輸入品は一部のスーパーマーケットや輸入食料品店などで販売されている。しかし、海外産を直輸入しているため日本語のラベルはない。近年シュウェップスに吸収された。

北海道にファンが多いのはガラナと同じく、コカコーラより一足早く発売されていたためである。このため北海道ではまれに1960年代に設置したと思われるロイヤルクラウンのホーロー看板が掘っ建て小屋に張られているのを見ることができる。
それはさておき、若大将の表面もさることながら、裏面が面白い。コカコーラ社がマジックフォーミュラとして門外不出の“秘法”の片鱗とも思えるものがこのローヤルクラウンコーラの文面から窺えるようです。

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2009年3月 6日 (金)

第4回日宣美展目録 「増田印刷物コレクション」から

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膨大な「増田印刷物コレクション」のスクラップブックを繰っていたら、第4回の「日本宣伝美術会展覧会目録」があった。1954年(昭和39年)のものである。日本が本格的な高度成長期に入る前、しかし時代の空気はその予感に満ちていたかと思われる。
年表(ザ・20世紀)をみるとこの年東通工(現=ソニー)が東京のデパートでトランジスタの「展示即売会」を開催。凡人社が平凡社に社名変更したとある。猿飛佐助が(杉浦しげる)「おもしろブック」(3月~)に、火の鳥が(手塚治虫)「漫画少年」(6月~)に、赤胴鈴之助(福井英一、武内つなよし)が「少年画報」(8月~)にとある。また赤胴鈴之助は初回は福井によるが、作者急逝のため武内が引き継ぎヒットした剣劇もの。とあって当時の小学校ではほとんどが回し読みの愛読者だったから急に作者が変わったので大騒ぎしたのを覚えている。
おっとこの辺のことを書き出したらキリがありません。閑話休題。
開催に際しての文章にも今となってはいささか気負いすぎではと思われるが、ストレートに高揚感が伝わってきます。。

第4回全国展開催に際して
日宣美は宣伝美術に専念する作家の親睦と向上を目的とする全国的な作家団体である。
設立以来4年 微力ながらわれわれの努力は 幸いにして国内識者の好意ある支持を得 国外からも望外の反響を得ることができた
しかし われわれは今日の成果に些かも甘んずるものではない われわれの前には多くの問題が残されている
われわれは日本のデザイナーして 社会を良くし産業を近代化し発展させることに役立ちたいと熱烈に希っている
第3回展は広く新人を求めて 敢えて公募をし 成果を収め得たので第4回展も新人発見と育成を目的として公募をした
江湖の御批判御支援を賜れば幸いである

この目録は北海道展のもので会場は札幌の丸善5階 会期は10月19日から24日まで。
この目録から覚えのある名前を挙げてみると(敬称略) 栗谷川健一(北海道会員)伊藤憲治、大智浩、大橋正、亀倉雄策、原弘、宮永岳彦、村越襄、山城隆一、山名文夫(以上東京会員)木村恒久、田中一光、永井一正、早川良雄(以上大阪会員)宇野亜喜良(名古屋会員)、他に地区名のみ記すと京都、神戸、岐阜、豊橋、福岡、北九州、長崎。
公募作品の奨励賞に仲条正義の名がある。中條さんは1933年生まれだから東京芸大美術学部図案科在学中21歳で受賞されたことになる。
また、札幌の代表的なデパート2店が堂々の広告を出していて不振にあえぐ今とはまさに隔世の感ありです。

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2009年2月28日 (土)

北海道相互銀行パンフレット 「増田印刷物コレクション」から

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かつて札幌のススキノ交差点近くに「成美堂書店」という本屋があった。2階は古書のフロアになっていて「植草甚一コーナー」なども設けて本好きを楽しませてくれた。それがいつの間にやらケータイデンワのショップに取って代わり面白くもなんともない風景の一つになってしまった。まぁ、そんなことはどうでもよい。(よくないか!)
今からかれこれ35年ほど前にそこで手に入れたのが膨大な量のスクラップ帳である。入手の経緯は後日に回すとして、そのスクラップはチラシ、包装紙、パンフレット、パッケージ、雑誌切り抜き等々きれいに分類されて貼ってある。数ある資料の中にご本人宛と思われる封筒や案内状がありその宛名から「増田印刷物コレクション」と名付けさせていただいた。この増田氏は推察するに図案業ならびに画工であろうか。いまでいうグラフィックデザイナーだ。腕は相当確かだったようで清酒のラベルなど手描きの精緻な版下もある。多分これなどスキャンして画像でお見せしたら印刷したものと全く見分けがつかないかも知れない。この辺もこのコーナーでおいおいご紹介していきます。
さて、“ダイイッパツメ”は銀行の販促物で仕上がりサイズは縦215横155ミリの四つ折り。発行年は1965年1月とある。「北海道相互銀行」のもの。後に「札幌銀行」と名前が変わり去年10月「北洋銀行」と合併し、その名は銀行史に残すのみとなってしまった。
それはともかく表紙をご覧頂く。1月の発行とあって温かい季節の鍋料理ならぬズバリ5タイプの鍋を紹介しているのが面白い。中面にそれぞれの値段が記してあって右上が土鍋450円、左上がジンギスカン鍋1000円、中央がスェーデン製ホーロー鍋390円、右下スキヤキ鍋950円、左下湯豆腐鍋1000円とある。以外なのは中央のスェーデン製ホーロー鍋の値段で他と比較しても390円はないと思うが、本場北欧デザインでしゃれてるし。一桁間違えてるんじゃないの?とも思うけど。でも誤植とは思えないしなぁ。どなたかこの辺の事情に詳しい方がいらっしゃったらご教示願いたいです。

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